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2006年12月29日 (金)

三島

しづけしや春を三島のほかけ舟 一茶
Issa02

句碑は四国中央市三島公園に昭和37年秋建立。帆掛け舟の趣で公園の頂上にある。
正月8日一茶は観浦から余木崎を経て海岸沿いに三島に出ている。このあたり今は国道11号線が通じ、南側には製紙工場の煙突が林立している。

八日、十六日ざくら見んと観浦の旅家を首途するに、此地より明の方に当れば、
   吾恵方詣は正月さくら哉
三十丁となん、三島てふ名所に到。
   しづけしや春を三島のほかけ舟
土居、島屋と云はたごやに宿。八里也。人々ハ金比羅参とて相宿のすだくつけても、君が世のありがたさは、きのふや今日までハ松かざりのありしが、はや
   出て見れば我のみならず初旅寝

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2006年12月28日 (木)

観音寺

寛政七年紀行
「寛政七年紀行」は一茶33歳の寛政7年(1795年)、観音寺の専念寺を起点にして、5年前に世を去った俳諧の師二六庵竹阿の門弟・知人を訪ねながら金比羅道を歩き松山の栗田樗堂を訪ねた旅の覚え書きである。

元日やさらに旅宿とおもほへず 一茶
Issa01  
句碑は観音寺市専念寺にある。昭和21年住職、地元有志が建立。
専念寺の住職五梅和尚は江戸遊学中、竹阿について葛飾派の俳諧を学び、その後しばしば師を観音寺に招いて歓待した。
五梅はこの縁で同門の一茶も厚く遇した。
この句は一茶が元日に詠んだ「寛政七年紀行」巻頭の句である。

 乙卯歳旦 於専念精舎
 今日立春向寺門 々々花開愈清暾
 入来親友酌樽酒 豈思是異居古園
  元日やさらに旅宿とおもほへず

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白峰神社

白峰寺は瀬戸内に面し、高松・坂出にまたがる五色台頂上にある。白峰寺の裏手に崇徳院の御陵白峰陵がある。
Sutokuin01

崇徳院の没後4年西行法師が御陵に参り鎮魂の歌を捧げている。
西行は北面の武士として崇徳院の父鳥羽帝に仕え院とも和歌を通じ親交があった。
よしや君昔の玉の床とてもかからむのちは何にかはせん 西行
[崇徳院の御霊よ、昔は玉の床に御起臥遊ばされましたが、このようにお亡くなりになりましたあとはそれが何になりましょう。いまはあの世に於ける御冥福を祈るばかりでございます]
Sutokuin04
歌碑は白峰寺境内に建てられた頓証寺境内にある。
昭和39年崇徳院没後800年祭記念行事の一環で建立された。

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鼓ヶ岡神社

崇徳院(1119~1164)
鳥羽天皇の第一皇子。母は待賢門院璋子。後白河天皇の同母兄。実の父を曽祖父・白河天皇とする説があるが真偽は不明。
「保元の乱」を起こし後白河との合戦に及ぶが敗れる。讃岐国に配流され鼓ヶ岡の行在所に入る。
崇徳院は8年後崩じたが、保元の乱で死亡した人々の菩提のため血書した大乗経の奉納を拒否されたため、憤怒し天狗の姿となって国家滅亡の誓いを立てたという。当時の世情不安は院の怨霊によるとして恐れられた。遺骸を焼く煙が都の方向にたなびいたという。
遺骸は坂出市の白峰陵に祀られた。

瀬をはやみ岩にせかるゝ滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ 崇徳院
[川の瀬が速いので、岩にせきとめられた滝川の水が、分かれても末には一つになるように、今あなたと別れて逢うことができなくても、ゆくゆくは必ず逢おうと思う]
Sutokuin03_1
歌碑は坂出市府中町鼓ヶ岡神社にある。平成12年4月建立。
歌は百人一首にも採られた崇徳院の代表歌である。
碑には注連縄が巻かれ崇徳院の御霊を鎮める願いが看取できる。

Sutokuin02_1
崇徳院の歌碑の隣にある杜鵑塚である。傍らに「此両小塔は崇徳上皇の御遺事に因て立たる杜鵑塚のいふものなり」の石柱がある。
御遺事とは上皇がここで都を偲び、
 啼けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす
と詠まれてから、鼓ヶ岡や白峰付近ではほととぎすが啼かなくなったという故事である。
やはりこれにも注連縄が巻かれ崇徳院の鎮魂の願いが窺える。

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2006年12月21日 (木)

まつの温泉

 泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ  不器男
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NHK俳句入門にも採録された不器男の代表句の一つ。句碑は「まつの温泉」敷地の角の高台にある。「まつの温泉」は閉鎖され訪れる人はいない。「俳句の小径」九番目の句碑。
不器男の故郷松丸は広見川の辺にある。これはそこで見かけた情景であろう。うら若い女性がひそかに水浴びを楽しんでいたところに人の気配を感じ、恥ずかしがって岸辺の葛に身を潜めたのである。

 ふるさとや石垣歯朶に春の月  不器男
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句碑は「まつの温泉」入口の左にある。「俳句の小径」十番目の句碑。ややゆるんだ石垣のすき間に芽生えた青歯朶にやわらかく蒼い月光がふりそそいでいる。

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松野西小学校

俳句の小径
芝不器男は「彗星(コメット)のごとく俳壇の空を通過した」と評されるように大正14年冬あたりから俳句作家として現れ昭和5年2月24日26歳の短い生涯を終わった。川端茅舎とともに「ホトトギス」四S以後の新人として光彩を放った。生涯の作品わずか二百句、その中に珠玉作をいくつも持つ稀有な俳人である。
不器男の故郷松野町では不器男の句碑を巡る散策路「俳句の小径」を設けている。

 あなたなる夜雨の葛のあなたかな  不器男
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「仙台につくみちはるかなる伊予のわが家をおもへば」の前書きがある。虚子の名鑑賞によって不器男を世に出した完璧の一句として、今なおその輝きを失わない。句碑は松野西小学校正門前にある。「俳句の小径」六番目の句碑である。

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2006年12月20日 (水)

羽根岬

歌碑は昭和34年奈半利町羽根岬に奈半利「十兵衛会」が建立。
碑には貫之一行の船が羽根岬沖を通過する時の一文を刻む。
このくだりには「土佐日記」全編を通し流れている望郷の思いがよく現れている。
1月11日一行は奈半の泊りを暁に船出して室津に向かい、昼ごろ羽根岬沖を通る。

まことにて名に聞くところ羽根ならば飛ぶがごとくに都へもがな 貫之Turayuki02

今し羽根といふところに来ぬ。稚き童このところの名を聞きて、「羽根といふところは鳥の羽のようにやある」といふ。まだ幼き童の言なれば人々笑ふ時に、ありける女童なむこの歌をよめる。「 まことにて名に聞くところ羽根ならば飛ぶがごとくに都へもがな」とぞいへる。男も女もいかでとく京へもがなと思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねどげにと思ひて人々忘れず。

Turayuki03
羽根岬

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土佐国衙跡

土佐日記
土佐日記は紀貫之が土佐国司の任を終え二ヶ月近い船旅を続けて帰京するまでの紀行を仮名書きで綴った歌日記風の作品である。

 土佐日記懐にあり散る桜  虚子
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句碑は南国市土佐国衙跡に昭和19年高浜虚子の古希祝いとして龍巻会が建立した。
国衙跡は平安の昔紀貫之が土佐国司として4年間住まいした邸跡である。昭和6年虚子は浦戸湾から土佐入りするやまずここを訪れた。その日は桜が繚乱と咲き誇っていた。

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2006年12月18日 (月)

石手寺

散策集
明治28年子規は病気療養のため松山に帰省し漱石の下宿「愚陀仏庵」で50余日を過ごした。帰京間近の日々近郊を散策吟行し百数十句を詠んだ。それを一冊に綴って「散策集」と題した。

明治二十八年九月二十日午後  子規子
今日はいつになく心地よければ折柄来合わせたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出ずる程秋の風のそゞろに背を吹てあつからず玉川町より郊外には出でける見るもの皆心行くさまなり

 南無大師石手の寺よ稲の花  子規
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大師堂の椽端に腰うちかけて息をつけバ其側に落ち散りし白紙何ぞと開くに当寺の御籤二十四番凶とあり中に「病事は長引也命にはさはりなし」など書きたる自ら我身にひしひしとあたりたるも不思議なり

 身の上や御籤を引けば秋の風  子規
Siki02_1 
拾った運命ながら御籤の占いは当った。帰京後8年に亘る子規の闘病生活が始まる。

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